The War of Betony
- タイトル
- The War of Betony
- 著者
- Vulper Newgate
- ファイル
- ./ARENA2/BOOKS/bok00084
Iliac Bayの歴史は、もしBayの全歴史について話すならば、Underkingの最も気味の悪い伝説よりもさらに読者をぞっとさせることでしょう。第一紀と第二紀に起こった戦争と比較すると、我々が軍事力に訴えることになった直近の戦争であるWar of Betonyは幾分見劣りします。Orsinium包囲戦は第一紀950年から第一紀980年まで途切れることなく続きました。千年後、疫病Thrassian PlagueとWar of RighteousnessによりIliac Bayの全人口の半分以上が亡くなりました。それでもなお、War of Betonyは依然として我々を魅了しますが、その理由はWar of Betonyが持つ即時性のためだけではありません。
皮肉にも、BetonyのLord MogrefがBetony島の保護をDaggerfallに求めたとき、彼は平和を求めていました。その島は永らく独立を維持していましたが、Bayにおける海賊行為の増加に伴い、MogrefはBetonyの価値に改めて気付いたのです。Lysandus王は、Kynarethの最高司祭であるLord Vanechをはじめとする多くの助言のもとでBetonyの領主になることに合意しました。
Betonyは繁栄した漁村であり戦略的に重要な場所に位置していましたが、Betonyの臣下としての任務は第一に慈善的なものでした。もし誰もBetonyを助けないのならば、Betonyは海賊、もしくはもっと悪い者の手に落ちてしまうことをLysandusは分かっていたのです。不運にも、SentinelのCamaron王は同意しませんでした。BetonyがSentinel王国の『伝統的な所有地』であると示唆するために不正あるいは違法に書かれた、二百年前の条約を引用し、Camaronは宣戦布告したのです。伝統的に好戦的な国の将軍達である彼の助言者の多くは、この件について王を支持しました。
主席相談役である、巫女(The Oracle)と呼ばれる女性はこの戦争における死と敗北を予知しましたが、彼女の教えは揉み消され、彼女は宮廷から追放されました。Camaronは彼女の言うことに耳を傾けるべきでした。いくつかの小競り合いではSentinelが勝つこともありましたが、主要な戦闘は全てDaggerfallが勝ちました。Lysandus王、Gothryd王子、そして軍司令官であるLord Bridwellは優れた戦士であると同時に優れた指導者であり、Bluffsの戦いとCraghold包囲戦ともにDaggerfallが勝利したのです。
もう一度戦闘に勝てば戦争に勝利していたかもしれません。しかし、King Lysandusの宮廷で珍しい事件が起きました。王の母、Dowager Queen Nulfagaは開戦以来戦争に不安を抱いてきましたが、ついに大惨事の予知を見始めたのです。彼女が見たのは、もし戦争が続くならば最愛の息子を亡くすというものでした。連勝続きのKing Lysandusは、Nulfagaが宮廷を去るまで彼女の恐れを聞くことを拒絶しました。そしてLysandusは、自らの差し迫った死について母がどれほど確信しているかを悟ったのです。調停役にReich Gradkeepの中立的な君主を立て、彼はSentinelと和平交渉を始めました。
Reich Gradkeep条約は締結されることはありませんでした。戦争で劣勢にある方がいつもそうであるように、Camaron王は当初は礼儀正しくしていましたが、条約にSentinel王国とDaggerfall王国が共にBetonyを領有するという正式な宣言が盛り込まれると気付いたとき、彼は突然激怒しました。中立で平和的な領土への攻撃に関する外交儀礼(protocol)を無視し、Camaraonは彼の軍隊にReich Gradkeep中で暴動を起こすよう指示を出しました。最初に宮殿の広間、そして議事堂の通りが赤く血に染まりました。Daggerfall軍によってこの騒乱は鎮圧されました。
Sentinel軍はYeorth Burrowlandへ逃亡し、Daggerfall軍は彼らが野営地を築く前にRavennian Forest近くまで彼らを追跡しました。一週間後、両軍それぞれが援軍を呼び、作戦を考慮する時間を持った後、両軍を隔てていたCryngaine Fieldと呼ばれる花咲く牧草地帯にて激突しました。戦闘の最中、自然のものではない霧がCryngaine Field中に拡散し、全ての戦闘員の視界を奪いました。霧が最終的に晴れたときには、Lysandus王の遺体が発見され、王の喉にはどの国の印も記されていない矢が刺さっていました。
Daggerfall軍は悲嘆に暮れ時間を浪費することはありませんでした。戦いの中で素晴らしい勇気を示し、軍の中で非常に人気があった若き王子Gothrydが、戦線の直ぐ傍らでDaggerfallの王に就き、進軍するよう命令を出したのです。おそらく、勇敢な若き戦士が、戦場に現れたDaggerfall軍を奮い立たせる完全なる王権を備える王へと変わる光景だったのであり、戦闘の流れがふと変わったのでしょう。Sentinelは慌て始めました。Redguardが撤退を始める前に、Gothryd王はCamaron王と会いに行き、二人の君主は戦いました。両者共に素晴らしい戦士でしたが、Gothrydの方がより巧みな剣術使いであり、この日にCamaronは命を落としました。SentinelのLord OresmeはDaggerfallに降伏し、Betonyにおける全ての権利を公式に放棄しました。彼は後にSentinelへの帰路の途中、船上で自殺を図りました。
平和はIliac Bayのどちらの側の都市や街においても困難な過程でした。正式な講和条約の一部として、Gothryd王は、故Camaron王と摂政Akorithi女王の一人娘であるAubk-i姫との婚約を望みました。両王国間の友好関係の回復を意図したこの要求は、姫はDaggerfallとの絆というよりむしろ捕虜である、とSentinel王宮の多くの者が考えましたが、部分的には成功しました。
Reich Gradkeepの統治者家族の唯一の生存者は病弱な幼児だったため、州評議員はLord Graddockの従兄弟であるLord Auberon Flyteに摂政として領地を統治するよう求めました。Lord Flyteは了承し、殆ど独裁と言ってもいい彼の豪腕ぶりは、血塗られたReich Gradkepp条約事件の後、Reich Gradkeepの秩序を回復するために必要とされたものでした。幼児が亡くなると、臣民は彼の妻Doryannaと彼を摂政から統治者へ昇格させ、彼の名誉において領地を改名することに合意したことを喜びました。Reich Gradkeepは、彼の先祖の邸宅にちなみAnticlereと名付けられました。
War of Betonyの悲惨さは、Anticlereにおいてさえ、今なお生き続けています。DaggerfallとSentinelがGothryd王とAubk-i姫の結婚を不和の象徴としてではなくむしろ平和の象徴として利用できるかどうか、これは未来だけが知っていることです。
--第三紀404年Suns Dawnの月14日