つんつん。

誰かが後ろから金糸雀の肩をつついた。
「ふぇ?」
振り向くと、

そこには薔薇水晶が立っていた。

ジャーン!ジャーン!ジャーン!

「げぇっ、ばらばら!」

「・・・・・・」
色素の薄い髪と瞳。その瞳も片方を眼帯で覆った彼女は、思わず敗走中に伏兵の襲撃を受けた武将のような驚き方をしてしまった金糸雀をただじぃっと見下ろしている。
(わ・・・・・・忘れてたかしらー!!)
そうだった。薔薇水晶の存在を――我ながらちょっとひどいと思った――忘れていた!
切羽詰った緊急事態の緊張が金糸雀を視野狭窄に陥らせたのだ。そうに違いない。そういうことにしておこう。
彼女もいつもの面子の一人だというのに、自分としたことが・・・・・・。
この個人的な謝罪の心が届くかしらばらばらー、と思いつつ金糸雀は薔薇水晶を見上げる。

ゴメンかしら金糸雀「・・・・・・」

沈黙を守る薔薇水晶「・・・・・・」

と、ところで何の用なのかしら?金糸雀「・・・・・・」

薔薇水晶は瞬きもせずようすを見ている「・・・・・・」

なす術なく石像と化した金糸雀「・・・・・・」

華麗なる彫像と化した薔薇水晶「・・・・・・」

・・・・・・い、息が詰まる・・・・・・・。
(・・・・・・呼んだのは向こうの方だったかしら?)
向こうからやってきて、一向に口を開く様子が無いのはどういうわけか。
いや薔薇水晶はいつもこんな調子だったか。
しかしちょうど頼るべき最後の一人が目の前に来てくれたのだ。先にこちらの用件を聞いてもらおう。と言うかそうしないと間が保たない。
恐る恐る声をかけてみる。
「あの、ばらばら?ちょっといいかしら」
と金糸雀が口を開いた刹那、
「宿題・・・・・・」
「え?」
ここでようやく薔薇水晶が声を発した。細い糸のような囁きとともに、持っていたものをこちらに差し出す。
「こ、これは・・・・・・」
それはまさに今、薔薇水晶に見せてもらおうとしていた数学の課題プリントであった。
完璧に全問、式と答えが記入してある。
「もしかして・・・・・・み、見せてくれるのかしら・・・・・・?」
こっくり、と頷く薔薇水晶。
「あ・・・・・・ありがとうかしらぁぁぁぁ~~~!!!」
なんということだろう。自分など頼るべき友人リストから一時的にとはいえ薔薇水晶の存在を忘れていたというのに、この子はさっきの自分と真紅のやりとりを見て、わざわざ課題を貸しに来てくれたのだ。何てよく気のつく子なのだろう。翠星石は薔薇水晶の消しゴムのカスでも煎じて飲むといい。
「このご恩は忘れないわよぅ。金糸雀は今、猛烈に感動しているかしらー!」
金糸雀は薔薇水晶の手をとってぶんぶんと友情の握手をかわした。薔薇水晶への感謝と、危機を切り抜けた安堵で涙さえ出てくる。
カナリアンシェイクハンド(金糸雀流握手)のあまりの勢いに体ごと揺さぶられつつも、一方薔薇水晶はいつもと変わらぬ無表情のまま、金糸雀に助言を与える。
「式を・・・・・・少し変えたりして・・・・・・丸写しは・・・・・・いけません・・・・・・・」
「わかったかしら。諸葛先生はその辺厳しいからかしら!」
びしぃっ!と親指を立てる金糸雀を見て、薔薇水晶はゆっくりと頷くと自分の席、水銀燈の右斜め後ろの机へと戻っていった。
金糸雀にはその後姿に後光がさして見えた。白い翼と頭上に輪っかも見える。

Illust 1 ◆6tDSZ/8cEU 氏

感謝と感激でもはや涙を滂沱と流しながら祈りのかたちに指を組んでいると、席に戻る途中で地上の天使はふと立ち止まり、こちらを振りかえった。
何故かうつむいていてその表情がよく見えないが、こちらを見てはいるようだ。
「ぅう?どーじだがじら、ばらばら(どーしたかしら、ばらばら)」
涙がまだ止まらないため鼻声で問いかける金糸雀。
その問いにしばし逡巡した様子を見せた薔薇水晶だったが、決意を固めたのか顔を上げてぽつりと、呟く。
「『ばらばら』・・・・・・は・・・・・・」
しかしその時、教室の扉が勢いよく開いて薔薇水晶の声はかき消された。
「やあ、みんなおはよう!さあ席について・・・・・・」
入ってきたのは、髪の短い優男風の外見。梅岡先生だった。
我らが担任の登場に、思い思いの行動をとっていた生徒たちがにわかに自分たちの席へと戻って行く。ホームルームが始まるのだ。
薔薇水晶も、しばらくは困り顔でこちらを見ていたが、仕方なく自分の席へと戻っていった。
「ばらばら・・・・・・何を言おうとしたのかしら・・・・・・?」
薔薇水晶の言葉が聞こえなかった金糸雀は、首をひねりつつも、
「とりあえず今は・・・・・・早くこいつを仕上げるかしら・・・・・・!」
今は目の前のプリントにとりかかることにした。薔薇水晶にはまた後で話を聞けばいい。


こうして金糸雀は、ホームルームの間ひたすら内職をして一時間目の危機を乗り切った。
無事課題を提出して席に戻る金糸雀を見ていた薔薇水晶は、金糸雀からのウインクをその片方だけの瞳で受け取ると、うつむいて誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「せめて・・・・・・雛苺のように・・・・・・『ばらしー』なら・・・・・・『ばらばら』は・・・・・・なんだか・・・・・・死体みたい・・・・・・だから・・・・・・」
するとその囁きの気配を感じ取ったのか、左斜め前に座る水銀燈が薔薇水晶を振り返って、訊ねた。
「薔薇水晶ぉ・・・・・・何か言ったぁ?」
突然水銀燈から声をかけられたことに、薔薇水晶の心臓の鼓動は一気に跳ね上がった。
顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。しかしなんとか平静を装い、静かに首を振って、どうにか返答を口にする。
「なんでも・・・・・・ありません・・・・・・お姉さま・・・・・・」
薔薇水晶の縮こまった様子と、その返答の「お姉さま」の部分に、少しだけ眉根を寄せて水銀燈は複雑な表情を浮かべる。
薔薇水晶は顔を伏せていて見ていなかったが、いわく困惑するような、わずかに哀しそうな表情。
しかしそれも一瞬のことだった。水銀燈はついと視線を窓の外へやると、いかにも興味なさげに言う。
「あらそぉ・・・・・・なら、いいんだけどぉ・・・・・・」

それっきり一時間目の間は、水銀燈がこちらを振り向く様子は無かった。
しかし薔薇水晶にはむしろその方がありがたかった。
一時間目の間、薔薇水晶の頬はりんごのように赤くなったままだったからである。
お姉さま――。
うっとりとした様子――彼女の表情の変化を見極められる者がいたとすればだが――でため息をつく薔薇水晶をよそに、時間は過ぎ去り、休み時間。
人知れず悩ましき乙女の、慈悲あるいは恩恵を受けた金糸雀はと言えば、
「あ、『ばらばら』ー!さっきはありがとーかしらー!!」
さっき薔薇水晶が何か言いかけたことなどすっかり忘れていた。

「・・・・・・いえ・・・・・・」

薔薇水晶も、しばらくの間は訂正する気になれなかった。


最終更新:2006年12月13日 00:48
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