「たっだいまー!遅くなってゴメンねー!カナー!」
10時半ごろ、みっちゃんは帰ってきた。
「おかえりかしら。今日はちょっと早かったかしら?」
遅くなったとは言うものの、いつもより30分ほど早い帰宅だった。
「今日はたまたまやることが少なかったのよー、それでね!」
とは言っているが、彼女は普段から帰りが遅い分、早く帰れるように何かと努力しているのだ。娘が寂しくないように。
金糸雀も、どんなに遅くなっても起きていて母を出迎えることにしている。
もちろん、母が寂しくないように。
2人はお互いに微笑みを交わし、それからリビングで食卓についた。
みっちゃんは遅い夕食、金糸雀は一緒にお茶を飲むためである。

それから2人は色々なことを話す。今日の出来事や、気になること、世間話も。
今日は主に金糸雀が話をした。学校であったこと、今日の騒動のことを。
身振り手振りで表情豊かに状況を再現する金糸雀を、母は優しく微笑みながら見つめている。
時々おかしさに笑い、時々娘のドジっぷりをたしなめる。
金糸雀も時々すねたりもしながら、最後は笑顔で応じる。
「こ、今度から気をつけるかしらー!」
しかし学校の話が終わり、みっちゃんが「帰ってからは何してたの?」とたずねると、金糸雀の表情が少し硬くなった――ように見えた。
「んー、別にこれといって何もしてないかしらー。洗濯物を取り込んで、ごはんの支度をして、それぐらい――ってしまったまた宿題忘れてたかしらー!!」
ぐおおお、と頭を押さえて叫ぶ金糸雀。
いつもの金糸雀・・・なのだが、少し、ほんの少しだけ、そのアクションに心境を隠しているような感触を受ける。
だが母はそれ以上を特に追及しなかった。
何かあるのなら、金糸雀の方から言い出すだろう。
娘がよっぽど溜め込んでいるようならこちらから話を促すこともあるが、基本的に彼女は娘の自主性というものを尊重している。
そこのところは、激烈に愛情を注いではいても決して甘やかしたりはしない方針である。
「もう遅いんだから、宿題、早く終わらせてしまいなさい。あんまり友達に見せてもらってばかりじゃ駄目よ?」
「はぁい・・・おやすみかしら」
「おやすみ、金糸雀」
食器を片付けると金糸雀は部屋へと戻っていった。
みっちゃんは扉が閉まった後もしばらくそちらの方を見つめていたが、
「さて・・・私もお風呂入って、寝るか」
やがて立ち上がり、自分の夕食の後片付けを始めた。


  ※


自分の部屋に戻った金糸雀。どうにかこうにか忘れていた宿題を終えたころには12時を少し回っていた。
やれやれ。また起きるのがつらいぞ、これは。
放っておいても夜更かし率の高い金糸雀だったが、そこは意識しないことにする。
眠い目をこすりながらベッドに腰かけ、他にやりのこしたことが無いか、再確認する。
時間割――は大丈夫だ。大体の教材は教室に置きっぱなしだし。
持ち物、も明日は特に必要な物は無いはずだ。あとは――
ぶらつかせていた足のかかとが何かにあたる感触。
思い出して、金糸雀はベッドの下に置いてあったものを引きずり出した。

角の丸い2等辺三角形のようなフォルム。
先ほど金糸雀がクローゼットで見つめていた黒いケースだった。
しばし逡巡するが、恐る恐るケースの蓋を開いていく。

中には、一丁のヴァイオリンが納められていた。

金糸雀はその『楽器』を見つめる。また少し、軽いめまいが襲ってくるが、無視。
しばらく動かなかった腕を上げ、ケースから本体と、同じく納められていた弓を取り出す。

「・・・・・」
もうどれくらいになるだろうか。
自分で思っているほど昔のことでもない。
しかし今も思い出せる。忘れられたことがない。
あれは驚くほど最近のこと。
それはとてもとても悲しいことだった。
だが、本当に悲しかったのは――
「・・・・・」
ヴァイオリンを掲げ、構える。演奏の姿勢。
そっと頬を寄せると、彼女の楽器は冷たい感触を返してくる。
弓を弦に当てる。
しかし――

「もう夜も遅いかしら」
そもそも弓に松脂も塗っていなければ、調弦もしていない。弾いてもまともに音は出ないのだ。
金糸雀はヴァイオリンを元通りにしまうと、ケースの蓋を閉じ、再びベッドの下へとしまいこんだ。
ベッドにもぐりこみ、頭から布団をかぶる。眠気は待ち構えていたかのように訪れた。
すぐに意識が落ちて行く。頭の中からあらゆる思考を追い出して行く。
「・・・・・ぐぅ・・・・・」
布団にもぐって1分で、もう金糸雀は眠っていた。

高い木のてっぺんから傘をさして飛び降り、落下傘のようにゆっくりと着地する夢を見た。


最終更新:2006年07月12日 15:21