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御所の山と源満仲

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From:蔭山 歩  2002/03/19 16:17

現在、太鼓会館があるあの小さな丘は「御所(ごしょ)の山」と仰木で呼ばれています。この小さな丘は平尾の馬蹄形の棚田からも望め、集落内からも目に付くところに位置します。実はそこには多田(源)満仲が居館を構えていた・・・という伝説です。
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多田満仲の館跡
 堅田から山手へ県道仰木本堅田線を走り、仰木小学校をすぎたあたり、奥比叡ドライブウェイに向う道路沿いに、地元で「御所の山」と
よぶ小さい丘がある。丘の上には、元禄6年(1693)当時の領主であった賀子内親王(後水尾天皇の皇女)の発願になる、源満仲館の旧跡を示す石碑が立つ。この地には古くから、清和源氏発展の基礎をつくった平安時代中頃の武将・源満仲の居館があったところだという言い伝えがあり、江戸時代に石碑が建立される直前まで小さな祠がたち、像も安置されていたようである。

 彼が仰木の地にいたという同時代の確実な史料はなく、なぜこのような伝承がのこっているのかは定かではないが、彼が仰木庄を領有したためとも、あるいは比叡山横川の恵心僧都と深いつながりがあったためともいわれている。確かに仰木は恵心僧都とのつながりで語られることが多く、満仲の九男僧源賢が恵心僧都の弟子であったことから、恵心僧都との親交が語られ、恵心僧都ゆかりの仰木の地に満仲の伝承が残るようになったのかもしれない。

 地元の小椋神社に伝わる古文書などから当時の様子をふりかえってみると、満仲が摂津国多田庄から仰木に移ってきたのが天禄2年(971)。その理由は書かれていないが、京の地で政争にあけくれていた身体をいやすためであったのかもしれない。彼は当地で恵心僧都の戒師として出家、満慶と号し、居館を寺とした。おそらく人里離れた静かな仰木の里での生活は彼にとっては何ものにもかえがたいものがあったのだろう。十年余りの歳月がまたたくまに過ぎ、再び多田庄へ帰ることを決意した満仲が馬で仰木の地を去ろうとしたとき、村人たちは彼との別れを嘆き悲しみ、馬の前に立ちはだかって必死になって
引き止めたという。これが五月に行われる小椋神社の仰木祭りでの「駒止めの行事」となって残ったのだともいわれている。

 満仲とのつながりを示す旧跡は他にもあり、上仰木集落のはずれにも、満仲の死後、彼の武具を埋めたところとも、あるいは源頼朝が満仲ゆかりの仰木の地に、満仲・頼光・頼信・頼義・義家の五代の塚をつくり天下泰平を祈ったとも伝える「五社の塚」とよぶ五基の石積の塚がのこる。

『大津の伝説』ふるさと大津歴史文庫5(大津市発行/1992)より抜粋
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