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仰木の氏神・小椋神社

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From:蔭山 歩  2002/03/12 18:02

前述の話「里山のはじまり」のなかにある<加太夫仙人>が祭った<滝壷>は現在の仰木の氏神小椋神社(おぐらじんじゃ)の奥宮にあたるという。続いてはその<小椋神社>について。

 比叡山の山麓、琵琶湖を臨む丘陵に開かれた仰木の集落の氏神小椋神社は、上仰木・辻ヶ下・平尾・下仰木四地区を氏子とする。集落の西北、奥比叡ドライブウェイ仰木料金所の手前五〇〇メートルに、鳥居と石標が立ち、これが目印となる。神社は、その北側山裾に南面して鎮座しており、境内には、天神川が流れ、三大杉をはじめとする古木が林立し、荘厳な雰囲気の鎮守の森を形作っている。
 境内には本社(田所たどころ神社)をはじめ、大宮(おおみや)・若宮(わかみや)・今宮(いまみや)・新宮(しんみや)の五社が、主な社殿となっており、五社大明神(ごしゃだいみょうじん)と呼ばれた時期もあった。神輿もそれぞれあって、祭には先の四地区の他、谷を隔て隣接する雄琴地区の千野も参加し、5地区がそれぞれの神輿を担ぐ。千野が加わるのは、辻ヶ下の若宮権現を千野に分祀した縁からだといわれ、また千野は、仰木の別れだとも伝えられているからで、特別深い関係をもつ歴史があったことがうかがわれる。
 当社の創建は、貞観年間(八五九〜八七六)惟喬親王(これたかしんのう)によってであると伝えられている。本社の祭神は、闇*神(くらおかみのかみ)と猿田彦とされ、このうち闇*神は、闇は谷を意味し、*は龍神を意味するとこから水を司る神の名である。小椋神社境内を流れる天神川をしばらく遡ると、八大龍王を祀るともいわれている滝壷神社跡がある。仰木から大原に抜ける仰木峠の坂道にかかる手前、右手にあたり、この小祠は小椋神社の奥宮で、社伝では、元宮のあった所とされており、以前近郷の雨乞がなされた所とも伝えられている。この地は、天神川の最上流にあたり、豊饒(ほうじょう)を司る水の神を祀るに相応しい場所といえ、小椋神社と一体となって古い信仰の姿を伝えている。小椋神社の春祭は、一名泥田祭(どろたまつり)と呼ばれ、雨が必ず降るといわれている。以前であれば、春祭の頃は田植え前に当たり、人々が最も水を求めた時期であった。水を司る祭神の恵が、泥田祭の名を生んだともいえよう。

 また、本社には、仰木を開拓したと伝える加太夫仙人(田所大明神)も配祀されている。江戸時代の他誌『近江輿地志略』には、仰木を開発しようとする加太夫仙人と、老翁と化した山王権現との問答が記され、一説には、大津京の遷都に伴い加太夫仙人が大和より移り住み、大和国の丹生川上の神(闇*神)を祀ったことに始まるともいわれている。この田所神社につながる宮座は、親村(しんむら)と呼ばれ、宗徳・浄光・浄恵・真法の四株に分かれており、これは、加太夫仙人の子供の名から採ったものといわれている。祭神の伝承が、祭礼の組織の中で生きているのである。

 仰木には、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)に帰依し、仰木に移り住んだといわれる多田満仲(ただみつなか)(九一二〜九九二)の遺跡が多く、同社にも、満仲の霊を合祀している。

 江戸時代、小椋神社は後水尾天皇の皇女賀子内親王の崇敬をうけ、社殿をはじめ石橋等、境内の整備に多くの寄進をうけた。

 本社(田所神社)の周囲、南側と西側には、大変珍しい石造の端垣(みずがき)がならんでいる。大宮・若宮の背後にも同様の端垣が見られるが、本社のものには、正安二年(一三〇〇)の銘が刻まれており貴重なもので、重要美術品に指定されている。

 また、仰木の集落内にもいくつか祠が祀られており、中でも下仰木の八坂神社は、観音堂に隣接し、広い境内に祀られている。

【あし】JR堅田駅から江若バス上仰木行き仰木小学校前下車 西へ徒歩15分

ふるさと大津歴史文庫9『大津の社』(大津市発行/1992)

※[闇*神]:*印の1文字漢字がありませんでした。詳しくは<雨冠+口を横並びに3つ+龍>です。
奈良県丹生川下神神社+クラオカミノカミについてわかります!神社を網羅したお気に入りサイトです。

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