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Nightmare City Another Construction (ナイトファン)

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カチカチと、歯車が空回りするような音が鳴りつづける……。
薄暗い部屋の中で、白衣を着た大人の男がアナログ式の金庫のダイヤルを回している。音はここから聞こえてきた。

同じ部屋にいる大人たちがそれを凝視している。そして今、その金庫がカチンと音を立てた。
男は取っ手を掴んで軽く引いてみた。……開かない、金庫にはロックがかかった。

「これで金庫のナンバーを知る者は、この世界で彼一人だ」

金庫の前に座ったまま、白衣のポケットからメモ用紙を取り出し、持っていたペンで何か書き始める。
番号を忘れないようにメモをとっているのだ。その手が震えているからか、書かれる数字は歪な形をしている。

「こんな事をして何の意味があるのですか? 茶封筒を金庫の中に入れて、それをロックした。一体何を目的として?」

大きな楕円形の机の周りに座る大人達の多くは、その発言に対して頷いて同意した。

五百枚ほどの原稿用紙を茶封筒に入れ、それに封をした後、金庫に入れてロックをかけた。
しかも自分でロックをかけず、その場で一人選んだ者に掛けさせたのだ。

事前に打ち合わせをしていなければ開けられなくなる訳だが、この男には信用があった。
『ロックナンバーはこれで頼む』と言われたとしても、彼なら間違えなく断るだろう。正義感がある。
同じ理由で決してナンバーを教えないと言う確信がある。

自分で見る必要があるなら他人にロックを掛けさせない。そして、彼なら自分で開けようともしないだろう。

それは、許可が出るまでもう開くことが無いと言うことだ。それに意味があるとも思えない。
一体何が書かれているのだろうか。

「すぐにわかるときが来る。諸君らはそれをただ待てばいい」

「では、それはいつ頃になるのでしょう」

立て続けに、また別の誰かが言った。
同時進行で金庫を操作していた男が立ち上がり、音をしのばせて席に戻る。

「遅くても明日の夜には開く時が来るだろう。うむ、丁度一日といった所か。
 ……私の用事はこれだけだ。この機会に他に連絡をしたい事がある者は?」

あちらこちらから聞こえてきた囁き声も、その発言でぴたりと止んだ。
一気に空気が緊迫した。誰も何も言わない。部屋の中を静寂が流れる。

「では解散、職務に戻ってくれたまえ。それと金庫を操作した君、ここに残るのだ」

沢山の椅子が一斉に床の上を滑る音と、大人たちが歩いて出口へ向かう音。
一番扉から近い所に座っていた女性が扉を開け放つのを合図に、白い光が部屋に射し込む。

陽の光ではない。人間が作り出す、白い蛍光灯の光だ。

床も壁も真っ白な廊下が、天井に途切れ途切れに張り付いている蛍光灯に照らされて、部屋を出た者たちの進む先を示していた。
道を照らす光、何の変哲も無い蛍光灯の光だが、薄暗い部屋で話をしていた者達からしたら眩しくてたまらない。

白い壁にはめられた透明なガラス、窓の外は暗闇そのものだ。
この会議が始まる前までは、まだ美しい夕焼けを見ることが出来たが、今は完全に日が沈んでしまっていた。
部屋を出て行った大人たちは、その夜の闇になど一目もくれず、先へ先へと急いで歩いていく。

白衣の男は肩越しに振り返り、窓に映って見えたそれらの動作の終わりを見送った。

白髪交じりの頭、顔は疲れ切ってやつれ、目から生気が感じられない。
細い首、そこから続く肩は、男なのに関わらずかなりのなで肩である。
腕も細く、決して力仕事をする体格ではない。白衣が似合っているのはこの華奢な体格だからこそか。

彼はこの部屋が再び闇に包まれる事を期待していた。だから目を離さずに扉を見続けた。
しかし、結局最後の一人が扉を閉めずに行ってしまった為、扉の型から延びる光は暗闇の中へ入り続け、部屋の一角を照らす事をやめなかった。

それを背中に浴びながら、白衣の男は部屋の奥へ視線を戻す。

真っ暗だ、何も見えない。目が光に慣れてしまった。
さっきまで見る事が出来た闇の向こうが、今は何も見えなくなっていた。
光が照らす空間だけが存在し、その先はただ虚無の空間が続いているようにも思える。

はっとして立ち上がり、姿勢を正した。
この闇の向こうにはここに残した声の主がいて、私を見続けていると思ったからだ。

あの人にはいつも厳粛な態度でいなければいけない。
自分だけが座っているなんて、決して許されることではない。

コツ、コツと床の上を進む音がし、光源に近づいたのを原因として、何とか膝の辺りまでは見る事が出来た。
成人用スーツのズボンの裾と靴、そのどちらも真っ黒だ。

「君は優し過ぎるのだ」

そのままこちらに歩み寄ってくる。
重い靴が床を踏む。足音と一緒に、少しずつ光がスーツを登る。

「君は見ず知らずの少年の手助けをする。別にそれを止めようとは思わないし、助けようとも思わない」

まるで自分の見える範囲が分かっているかの様に、それを分かってわざとそうしているかの様に、
歩みを止めた所では、顎の直ぐ下までしか照らさなかった。

「その手助けが例え規律に反しているとしても、我輩は何もしないで事の成り行きを見守る事にする。やりたい様にすればいい」

「その私の行動は結末を変えるような、大きな変化を与えるものですか? 重大な事ですか?」

男の閉じていた口が、ここで初めて開いた。
それもかなり恐る恐ると、決心の末に出した唯一の言葉といった感じである。

「君はバタフライ効果というものを知っているかな?」

「勿論です」

「結果に影響しない過程など無い。
 どんな小さな出来事も結末を大きく変える可能性が有り、その可能性が外れても少なからず何かの影響を与える。
 今日起きる事柄で、大きいも小さいも関係ない。これから君がする事はその内の一つだ」

組んでいた腕を解き、今度は腰の後ろに手を回した。
笑っているのか泣いているのか、怒っているのか喜んでいるのか、
どんな表情を浮かべているかはそこまで光が上っていない為、確認する事は出来なかった。

「我輩が言いたい事は以上だ。今日一日はひどく忙しくなる。そろそろ戻った方が良いだろう」

『今日は忙しくなる』確かにそう聞こえた。何が忙しくなるのだろうか。
今まで順調に来ている。きっと今日のスケジュールも、問題無くスムーズに終わるだろう。

男は白衣の袖をまくり、腕時計を見た。そろそろモニター達がラボに入る頃だ。
ここで問題が起こるとなると、きっとかなり忙しくなる。しかし何も起こらない。なぜなら順調そのものだから。

時計を元に戻し、姿勢を正す。

なぜ忙しくなるのでしょうか。そう聞こうと思ったが、やめた。

どうせ何も起こらない。起こるはずなども無い問題に対して心配する必要は無い。
そう自分で答え、一礼したあと反転して部屋の出口へ向かった。白い光がやはり眩しい。

向かい始めた直後、すでにいつも通りで無いことが起こり始めていることに気付いた。
光源でもある真っ白な廊下の先から、誰かがこの部屋目掛けて走ってくるのだ。

走ることなら誰にでも出来る。しかし、その走音が異常だったのだ。
どたどたと、全力で走っている。
ここまでずっと走って来たのだろう。息遣いも喘ぎ喘ぎ、かなり不規則で今にも倒れそうだ。

バァン!

男のシルエットが出入り口に浮かんだ。
止まる時に扉を叩いた為、爆音が廊下に響いて遠ざかっていくのが解った。

「どうした?」

白衣の男が聞く。ここで既にいつも通りで無いのに、わざと当然と言うような態度で振舞った。

浮かんだシルエットも白衣の男と同じ、かなり細身で筋肉などほとんど付いていない。
扉に寄り掛かる体はより多くの酸素を欲しており、肺は慣れない急な運動に悲鳴を上げている。

「副局長が!」

息を切らしながら何とかその一文節を絞り出した。
副局長と言うと、今回の実験のモニター達に対する責任を、全面的に取らされている立場だ。
息を切らす影の発言を聞いて、ここで既に白衣の男は青ざめていた。

一体何が起こったのだろうか。あらゆる可能性を考察した。対処の方法も同時に浮かんでくる。
頭の中に数え切れないほどの候補が浮かんだが、次の発言は予想さえ出来なかった事だった。

「副局長が死にました! 心停止から既に六分が経過しています! すぐに来てください!」

副局長が死んだ。確かに彼はそう言った。
そんな馬鹿な、ここへ来る途中に肩を並べて歩いたばかりだ。どうして死ぬ?

「副局長が死んだんです! ラボが混乱しています! あなたが必要なんです!」

ぽかんと立っている白衣の男に、影は今一度叫ぶ。
それでも事の重大さが解らないのか、ショックで動けないのか、そのまま立ち竦んで動かない。

「行きたまえ、今日やる事は山ほど有ると言っただろう。順序良く消化をしていくといい」

鞭で打たれたかの様にその場で一度跳ねると、出口へ向かって素早く動き始める。

「詳しく話してくれ!」

「まずは下までご一緒ください!話は走りながら!」

男は影と一緒に部屋を飛び出すのと同時に、扉の取っ手に手を掛けた。
最初だけぐんと速く、そのあとは蝶番がエネルギーを緩和しながら、扉が音も無く光を細めた。

扉の隙間が狭くなるにつれ、部屋に延びる三角形は鋭くなった。
ゆっくりとではあるが、着実に無くなり続ける光。増え続ける闇。

それを見た黒スーツの男は、手を後ろで組んだまま短く笑った。




    1  遭遇 
            友情は愛されるより愛することにある。  アリストテレス




『じゃあ10分後にいつもの公園のトコで会おうな』

『解った……なぁ、こうやって顔を向き合わせて話すの、どれ位振りになる?』

『……6時間とちょっと振りだな』

『しばらく振りになるのか……』

『なぁギコ、こんな下らないやりとりしといて遅れた何て言ったら、ただじゃ済ませないからな。
 今回だけはマジで許さないぞ。罰ゲームつきだからな、よく覚えとけよ』

『遅れりゃしないよ、今日は特別さ』

『そう言ってお前はいつも遅刻するんだ。五分と待たないからな。早く来いよ』

『解ったって全く、早く来い、早く来いって……じゃあ十五分後にな』

『待て! どうして五分延び……』

ピッ

握っていた携帯電話を耳から離し、親指でボタンを押した。液晶画面に文字が流れる。
『通話終了 通信時間3分46秒』

あそこまで十分間で移動すること自体が、土台無理な話なのだ。

都会の真ん中を『ギコ』は歩いていた。
今日は土曜ということもあって都市には人が溢れている。

……見かけだけで正確に言い表すのなら、人ではなくネコである。
みな体には厚めの毛が生え、鼻は小さく、ひげが生えて尻尾があった。どこから見てもネコである。
その一人……否、一匹一匹が人間と同じように服を着て、足で立ち、忙しく動き回りながら都市を賑わせていた。

そう、この都市に人間という種は存在しない。
目に入る全員がネコの姿をしていると言っても良いだろう。

そして、ギコは黄色の毛で覆われた若者だった。

この黄毛は生まれつきらしい。綺麗に切り揃えた見た目からは、違和感無い清潔感を感じることが出来た。
顔つきにはまだ幼さが残っており、中年の者から見れば『近頃の若者』と言われそうである。

バイオレットのすっきりとした印象を与えるズボン。おしゃれなTシャツの上から、一枚ワイシャツを羽織っている。
ファッション誌に載っても不思議ではないセンスだ。

彼は歩きながら携帯をいじり続けた。
ページ習得中と下のほうに数秒だけ点滅した後、液晶画面の気圧等高線の図の下に文字が現れる。
『降水確率0%』

「……よし」

画面から目を上げると、横断歩道の手前で分厚い人垣が出来ているのが見えた。信号が赤く点灯している。
駅前の信号は長い、引っかかるとかなり待たされる羽目になる。それだけは勘弁だ。

睨みながら歩いていくと、手前もう少しの所で青色に表示色が変わった。

――今日は運がいい――

上機嫌で歩き続けながら携帯電話をポケットにしまう。

『天気は快晴、西よりの緩やかな風、陽射しもぽかぽかして降水確率は0%、外で遊ぶにはもってこいの日和になるでしょう』

近頃の天気予報は嘘を付かない。アナウンサーの言ったとおりの天候だ。

昔は当たる方が少ないと言われていたらしいが、今は百発百中、外れる方が珍しい。
この陽を浴びながら、もう少し寄り道をしてもバチは当たらないだろう。


休みの日に仲間と集まって外へ遊びにいく、別に特別不思議なことではない。
そして、決まってそのような者達には、遊ぶ時に殆ど決まった人員がいるものである。

ギコの場合、その『人員』にいつも含まれているのがフサであった。

足し算を知るより早くから一緒にいる仲であり、頭が良くて話も解る。
出来ない事など無い。ケンカが強くて仲間思い、典型的な優等生。
明るくて親しみやすくて、何でも知っているクラスの人気者、短くいえばそんな感じか。

ついでに言えば中学校のとき、『ゴマにパズルゲームで圧勝した』伝説も残している。

自分たちのクラスの担当をしていた先生は、休み時間になると、いつも生徒にパズルゲームの相手をさせた。

『ゴマ』はその先生のあだ名である。黒色の毛を生やし、短く刈り上げ、頭が小さいから『ゴマ』
もちろん、学歴も物の考え方も知識も、全て勝る大人に子供がパズルゲームで敵う筈など無い。

いつも大差をつけて圧勝するのだ。言い方を変えれば弱いものいじめである。
そうして負けた仲間が悔し涙を浮かべているのを見て、フサが初めて立ち上がったのだ。

いつもは横から見ているだけのフサが、駒の片付けをしている先生に一言、
「先生、俺とやりませんか?」そう言った時には周りから野次が飛んだほどである。

その事件の後、ゴマはフサだけに目をつける様になった。
名前を呼ばれても逃げようとせず、はいと返事だけして素直に相手をするのだが、傍から見れば、フサが手加減をしている事は一目で解った。

「どっちが大人か解らなくなって来るよな」

ゲームが一回終わる度に、野次馬は口を揃えてそう言う。
確かに、ゴマは自分が負けた事を認めようとしない。何度も負かして様見ろと言うような顔をする。

子供相手にである。

それに比べてフサは、妙な価値観を持つ相手にそれを譲り続けた。そっちの方が明らかに大人じゃないか?
そう考えて結成された『フサ組み』は、休み時間になる度に教室からフサを連れ出すのが仕事になった。

皆から親しまれ、敬われ、ヒーローみたいなやつなのだ。要するには。

横断歩道を渡りながらぽかぽかする日光にあたり、そんな昔のことを思い出していると唐突に現実へ戻された。

――めまいだ――

ぐらりと頭が揺れ、視界の四方が黒く染まり始める。
変だな、人よりは運動する方だし、朝飯もしっかり食べてきたのに。

意識が遠のく。
横断歩道の白い線に両手をつき、コンクリートへの転倒を防いだ。

こんなひどいのは生まれて初めてだ。上も下もわからない。ぐわんぐわんと鳴って頭が揺れる。
誰かが自分の肩に手を置き軽く叩いている。きっと心配してくれているのだろう。

それでも心配する声は聞こえなかった。
最初は軽い高周波のような音から始まり、次の瞬間にはテレビで聞く砂嵐音に似たような音が、大音量で頭の中へ流れ込んで来ていたからだ。

――これが耳鳴りってやつか――

両手で耳を塞ぎ、頭を低くして何も聞かないようにと、外との空間を遮断した。
額がゴリゴリとコンクリートを擦る。

ギコは大声で叫んでいた。
この耳鳴りの音を別の音で相殺するために、とにかくどうにかしたかったのだ。
しかし、そのあとに3つ数えるときには、『耳鳴り』も『めまい』もどこかへ綺麗に行ってしまっていた。

両手を耳につけたまま目を開いてみる。横断歩道の白線がすぐ目の前にあった。
何ともない、どこも怪我はしていない。全て正常である。少し膝が痛いが、きっと軽くすりむいただけだろう。

恐る恐る手を離してみる。……静かだった。
耳鳴りは完全に消えて、自分の荒い息遣いだけが聞こえてくる。
びっくりした。冗談抜きに、気絶の一歩手前まで行ったという感じだった。

「大丈夫です。有難うございました」

そう心配してくれた人たちに言おうと思い、両手をつき、立ち上がりながら視界を上げた。
ここで異変が起きた。めまいや耳鳴りのレベルではない。
視界の中には誰も入ってこなかったのだ。

『視界の中には誰も入ってこなかった』この表現は正しい。

ギコは不思議がってその場でくるりと一回転し、四方を見回した。

その結果もやはり『誰も入ってこなかった』

横断歩道を一緒に渡っていた数十人の通行人たち、
信号が変わるまでそこで待つ気でいたであろう車列、
道に沿うようにして立ち並ぶ店の中にも人気が感じられない。

こうなってしまっては交通整理をする必要などどこにも無いのに、歩行者用信号は早く渡れと点滅している。

――どういうことだ?――

全てがいきなりで思考は止まったままだった。
何か答えが欲しい。何でもいい、誰かの意見を聞きたい。

そうだ、フサなら何か知っているかもしれない。何か教えてくれるかもしれない。
いつもそうだ、フサに聞けば必ず適切な答えが返ってくる。それが答えだ。間違うことなど無い。
『困った時はフサに聞け』これはかなり前から身に付いている教訓でもある。

いつでもどこでも連絡が取れる端末、携帯電話……便利な時代になったものだな。
わざわざそこまで考えてから道路の真ん中で左右を見回し、ポケットに手を伸ばした。

しかし、手は何も捕らえてはくれなかった。掴んだのは空気だ。
携帯電話はどこに?そう考えるのと同時に体を見下ろした。
そして、なぜ何も捕らえてくれなかったか、唐突に理解した。

「……あ…れ?」

――服を着ていない――

裸であった。何も着ていない、何も身につけていない。

確かにネコの着衣にはオシャレ以外の何の効果も無いとも言えるか。
団体を組織していることや、その場でのマナーを考えなければ必要の無いものといえない事もないだろう。

着ていた服だけでない、いつも持ち歩くショルダーパック、荷物入れも蒸発していた。

じゃあ持っていた荷物は? 下に落ちているんじゃないのか?
急いで足元を見回す。……何も落ちていない、コンクリートに引かれた白線がこちらを見ているだけだった。

完全に丸腰である。
何も持っていない、何も着ていない。ここにいるのは自分ひとりだけ。

いつからこうなった?
めまいが起きて、耳鳴りが起きて、それからだ。その一瞬の内に全てが蒸発した。

その時、突然にギコの脳裏にある文が浮かんだ。

[心理ゲームQ1]
町を歩いていると、急に自分以外の全ての生物が消滅しました。貴方なら最初にどこへ向かいますか?

ギコはぞっとした。
『自分以外の全ての生物が消滅しました』

湧き上がる恐怖を抑えながら、フサが待つ、待っているはずの公園へと歩を進める。



――――――――――――――――――――――――――――――



たったさっきまでは腕も広げられない程込みあっていたのに、今は真っ直ぐに伸びた道路が彼方まで見える。

いつもは道路でガンガンにスピードを出す車列も今は存在しない。

歩道横に生えている木々は相変わらず心地良さそうに風を受け、葉をさらさらと鳴らしている。
しかし、その影に設置してあるベンチに座る老人やサラリーマン、イチャつくカップルやカッコ付けた不良は誰一人としていなかった。

開放的な印象を与えるファーストフード店を通り過ぎながら覘く。
カウンターの奥に食べ物の写真つきメニューが見える。

その下には女性のレジを打つ係りの人がいて、椅子には明らかに不健康的な食べ物を食べる人が座っている……筈だが今は誰もいない。
白い椅子とテーブルが規則正しく並んでいるだけである。

駅前のビルに設置された巨大なオーロラビジョンでは、早朝のニュースが放映されている所だった。
顔立ちが整った女性のアナウンサーが、カメラ目線でとりとめのないコメントばかりを振り巻く。
学校に行く前に見る、毎朝楽しみにしている番組の一つだ。こんな時間までやっているのか。

雰囲気が大好きなのが理由だが……今はそこに座る人が誰もいない。
花が飾られた机だけがそこに写され、固定カメラで軽快な音楽だけが流れている。と、そこで急に画面が消えた。

ブウゥゥン……。

それを見たギコは恐怖に震えた。耳を塞いで、大声を出しながら裏路地に飛び込んだ。
何に追われるわけでもなく、何に襲われるわけでもなく、ただただ恐ろしかった。

ある筈の物が……否、町で生きていたものの全てが消え、代わりに静寂がそこを支配していた。



――――――――――――――――――――――――――――――



小さい頃は、まだまだ日が沈まない時間に布団に入って、太陽が目覚めるのと同じ位早起きし、いつもと一味違う町の空気を楽しんだものだ。
上京するよりも前、ここよりもずっと田舎で両親と暮らしていた時の思い出だ。

早すぎると太陽は何も照らしてくれず、夜と同じでつまらない。
遅すぎると犬を散歩させる人が目に入り、気分が萎えてしまう。

朝四時から五時半ごろまでの間だけ、町はしんと静まり返る。自分一人になるのだ。その時が狙い目だ。

自転車で大きな道路の真ん中を突っ走る。駅前から延びた国道を行ける所まで行ってみる。
少し高い所へ登れば、綺麗な変化を見せる朝焼けが見られる。それが神秘的で、いつも心を奪われた。

平日の早朝、学校があっても関係ない。
慣れると目覚まし無しでもその時間帯に目を覚ませるようになり、毎日の楽しみの一つになった。
フサの部屋の窓に爪ほどの大きさの小石をぶつけ、無理矢理に起こして一緒に走り回った事もある。

仲間と遊ぶのも楽しいが、こうした静けさを楽しむのも良い。

しかし、今回の静まり方はそれとは全く違う。本当の静寂だった。

昔の方は、通り過ぎる家に人がいるのが解った。少なからず生を感じる事が出来た。寝息を聞くことが出来た。
今は都市その物が、この世の全てが死んでいる。世界の全てが死んで、亡骸が淡々と並んでいるようだ。

町の皆はどこに行ったのだろう。消えた人たちはどこにいるのだろう。
SFものの映画でよく聞く『平行世界』って言うやつだろうか。

この世界には数え切れないほどの次元が存在し、全て同じような設定で存在する。
しかし、別の次元ではどこかに違いがあり、何らかの『ズレ』がある。

例えば、自分がフサの様に頭が良くてスポーツが出来て人気者で、その代わりにフサが自分の立場に立つ『ズレ』。
それでも周りは変わっていない。カデシやタトや、旧友がいていつも通りに遊ぶ。

ん? ちょっとまてよ?
『皆が消えた』のではなくて、『自分が消えた』のかも知れない?
自分だけが別次元に移動し、皆はそのまま? 一種の神隠しか?

じゃあこの世界は、
『数秒前まで確かに人がいて、数秒前まで確かにここで生活していたけど、急に蒸発して誰もいなくなったズレのある世界』か。
もしそうなら死ぬまで自分ひとりだ。誰もいないこの空間で、自分だけ。

父さん、母さん、フサにレット、中学校の時の友や親戚の叔父さん叔母さん、それが皆消えて自分ひとり……狂ってしまいそうだ。
もし一通り探しても誰もいなかったら自殺しよう。こんな所で生きていても怖いばっかりだ。
生きていく必要が見つからない。


「あっ」

まるでずっと前から準備をしていたかの様に、口はそこに着くと勝手に音を発していた。
ギコはその自分の声に気付かされた。ここは約束の公園へと続く通りに合流する、見慣れた十字路だ。

表通りは人が多すぎて、思う通りに進むことが出来ない。
だからこそ愛用していた裏通り、その細い通りが表通りと合流する、自分だけが知っている抜け道。
その抜け道が終わる所で自分の声に驚き、足が止まった。

――立ち止まってしまった――

立ち止まらない様にと気をつけていたのに、足はそこで止まってしまった。
意識しないで曲がりたかった。期待しない為に、裏切られた時のショックを少なくする為にだ。

人が消えた。
視界に入る人は二百人を優に越えていたにも関わらず、その全てが消え、自分だけが例外としてここに残った。

その例外がいくらほどの確率か、きっとかなり低いはずだ。
親も友人も、きっとみんな同じようにそのくじを引かされる。そう、唯一無二の親友がいなくなっているかもしれないのだ。

怖い、恐ろしくてたまらない。しかし、もし消えていなければ友がそこで待っているのだ。

待たせてはいけない、罰ゲーム付きだって言っていたじゃないか。
進もう、歩いてこの角を曲がろう。フサがいればこの状況を打開する事だって出来る。確信がある。

ギコは手で両頬を叩く。

(もしいなかったら?)

(そのときに考えるさ)

一歩足を踏み出した。そうすると不思議なもので、二歩目も三歩目も、勝手に進んだ。
今、公園の噴水が……見える!

ドッ!

待ち合わせ場所が見えたと思ったら、曲がった所にあった何かに衝突した。
衝突したと言うより、突き飛ばされたと言ったほうが正しいか。

「イテェ!」

ギコは叫びながらそこに尻餅をついた。コンクリートは思っていたよりもずっと硬い。

「三十分の遅刻だアホ!」

痛みに顔をゆがませながら、そこに立っているものを見上げてみる。

「この異常事態の時にお前というヤツは……。
 こういう時にこそ走って息を切らしてさ、ゼエゼエ言いながら謝るのが友って言う奴じゃないのか?」

体は茶色の毛に覆われていた。着痩せする鍛え上げられた逆三角の体格と、太い首。
真面目にスポーツを続けた人だけが成る体系だ。男はみんなそれに憧れるが、努力しようとはしない。

そして聞きなれた声に、見慣れた顔。

フサだ。

腕を組み、片方の足をイライラとその場で鳴らしながら、そこに立っていた。
いつもと変わらない口調、人を小ばかにした様な、それでいて冗談を忘れない文字列。聞いていて飽きることは無い。

「マジで許さないって言ったもんなぁ、何してもらおうか。取り敢えずは昼飯を奢って……ん?」

両手をコンクリートに伸ばし、尻餅をついたままの姿勢で動かないギコの顔を、フサが見下ろす。

「お前、泣いてんのか?」

あ、デジャブーだ。とギコは思った。
だいぶ前に同じ事を言われたような気がする。だけど、思い出せない。何だかもどかしい。

「ギコ、それは涙だよなぁ? どうなんだぁ?」

はっとした。頬が冷たいと思ったら涙が流れている。それを両手で擦りながら立ち上がる。

「ち、ちげーよ! ぶつかった時に鼻打って、それで尻餅ついただけだゴルァ!」

後半は声が裏返っていた。涙を流していたことは否定しなかった。
嬉しくて嬉しくて、ただそれだけだったから。




    3




取り敢えずは噴水の縁に腰を下ろし、二人して陽を浴びながらボーとしていた。
背中の方向直ぐのところからは、おしゃれなオブジェから噴出す大量の水が勢い良く落ちて鳴らす、心地よい音が聞こえてくる。

正面には大きくて太い、片側四車線の道路が彼方まで続いているのが見えた。
都会の真ん中だ。これ位の規模の物でないと渋滞など簡単に起きてしまう。

その両側には高層ビルが、大きな壁のようにズラリと立ち並ぶ。
鉄筋コンクリートが支える超高層建造物、とても丈夫に見えるが実はあの中は穴だらけで、とにかく安いコストで良い物を、とばかり謳う企業が作ったはりぼてだ。

都会は犯罪などには強い癖して、地震、雷、大雪、強風といった自然災害にはめっぽう弱い。

昔住んでいた田舎では、冬になれば腰くらいの高さまで雪が降る事など当たり前だった。
雪かきと雪下ろし、タイヤの交換の仕方はかなり幼いうちに教えられるのと同時に、雪を使った遊び方と、その恐ろしさを嫌というほど覚える。

それに比べて都会に上京すると、その様な自然の力を感じることがずっと少なくなった。
雪が指の先を軽く隠すくらい積っただけで、ここでは大ニュースである。

『今日ここ、ドリームシティで雪が観測されました。積雪二センチです』
『これが原因で、立ち往生する車があちこちで見受けられました。二十キロ強にも及ぶ大渋滞が、今も続いております』

こんな感じだ。

田舎にいた頃はここがうらやましくて堪らなかったが、いざ一人暮らしを始めてみると不便な所が沢山浮かんできた。
両親がわざわざ地方にまで引っ込み、そこで家を建てた理由が分かった気がする。

たとえば、人が多すぎてもだめだという事だ。
学校で班を作る時に、六人いると必ず一人は掃除をサボるヤツがでる様に、最低限の事が出来ない人数は、全体の人数に比例する。

全て一緒だ。職場でもそう、ネットでもそう、この理論はどこでも通用する。
そいつを批判するつもりは無いが、気が合う仲間を探すことはそれほど大変だと言うことだ。


しかし今の都市には……人が少なすぎる。

ギコは横目でフサが何をしているかちらりと見てみた。
空を仰ぎ、口をぽかんと開けて脱力している。きっとここでずっと待っていて疲れたのだろう。

「あのさ」

会話を切り出してみる。

「俺、遅刻したよな。電話があった時にはここにいたんだよな」

「……そうだよ」

何だかそっけない、怒っているのだろうか。

「ごめんな、こんな変な空間で、一人で待たせるなんて……」

「あ~いいよ、気にすんな。昼飯奢ってくれれば十分だから」

空を見上げたまま、手をひらひらさせながら言った。
やばいぞ、かなり怒っている。しかも罰ゲームは実現しそうだ。

「……フサさ」

「どした」

「この事態をどう解釈する? どうしてこうなったと思う?」

「全く、見当も付かない。仮説が立っても直ぐに矛盾点が浮かんで否定が出来るんだ」

「たとえば?」

フサは、たとえばだなぁ~と唸りながら下を向く。フサらしくない。何だか痛ましい。

「瞬間空間転移装置が使われたとか」

ぎょっとした。


確かに、ついこの間その話題をテレビで見たばっかりだ。
生放送のスタジオで容器から容器へ、否、容器から空間へ、白いモルモットを閃光と一緒に瞬間移動させたのだ。

レールの上をすべる滑車に載せられ、防弾強化ガラスの箱に入った、グランドピアノ位の大きさの端末が最初にスタジオに現れた。

白衣の男が誇らしげにスイッチを入れ、巨大なファンがゆっくりと動き始める様な音がした後……爆音と共にモルモットが消える。
どよりとざわめくスタジオ、閃光が止むのと同時にもう片方の容器に視線が注がれる。カメラも大きくズームイン。

……空っぽだ。
突如として現れたモルモットを見て最初に声をあげたのは、スイッチを入れた白衣の男だった。

なんと男のズボンの中、股間の……。そこで一枚絵、『しばらくお待ちください』


「あの実験は凄かったよな」

ギコが腹を抱えて笑い出す。笑ってはだめだ、不謹慎だ。

「いや、そうじゃなくて」

真面目な顔をしていたフサもこれには耐えられず、体を捩じらせて笑った。

「人質にするんだよ。ほら、今何か色々大変だろ?
 わが国の自衛隊派遣! 国を離れる事は悲しいですが! 任務を全うし!」

後半はどこかの軍隊将校が出すような、太くて聞き取りにくい声で叫んだ。

フサは俺と話す時に『何か』とか、『色々』とかを好んで使う。
詳しく話しても理解してくれない事を分かってくれているのだ。それを悔しくも思うし、ありがたくも思う。

「それにどんな矛盾点が浮かぶ? 俺の意見よりもずっと現実的だ」

右手を持ち上げ、軽く振り下ろしながら言った。

あの実験で瞬間移動は可能だと証明されたのは事実な訳だ。
誤差が少々生じるが……。
この誤差さえなくなれば、相対性理論によるタイムマシーンの発明も近いだろう。

未来に行くことが可能になる。とても夢が広がる。冒険活劇みたいだ。

「まず空間の問題だ」

始まった、フサ劇場。こいつはこれで食っていけるんじゃないのか?

「空間転移した後はどこに行く? ここまで静かになったって事は、都市の全域で集団移動が起こったんだ。その後はどこへ?
 歩いていた人だけじゃない。道路で走っていた車も、建築物の中にいた人たちもみんなして消えたんだ。この広大な面積をどこに用意する?」

ギコが呻く。どんな可能性があるか……。

「砂漠のど真ん中とか」

「バカ、誤差があるんだよ。出来るだけ近くなければいけない。それでいて都市の面積の何倍も必要だ。
 それに、飛ばした後の目的を達成しなきゃ転移させたコストも無駄になる。実験はもっと小規模でやればいい。
 あの小さな転移装置を作るだけで、物凄い額の金が動いたって話じゃないか。
 どれくらいの大きさだ? 拳二つ分くらいか? あの白衣のオヤジも、全人生をささげて完成させたみたいだしな。
 そんな簡単な事じゃないんだよ。前々から極秘に作っていたとしても明らかにこの面積の転移は無理だ」

膝を手で叩く。ピンポーン! ギコ選手の回答です!

「じゃあ、沢山の国で分割してとか」

「だからな、ギコ」

「分かった、OK、あの巨大な端末を設置しなければいけない。そうだろ?」

仮説を立てることは簡単だが、それを否定することは難しい。
大学の物理の授業で聞いたエーテルの件だってそうだ。

知識が無い者が聞いて『それは変だ』と言うのは簡単だが、否定することは出来ない。
否定が出来ない事柄は正しいとされる。間違えていることを証明出来ないのだから、それもそうなのだが……。

「よく考えたな」

「簡単な足し算さ。それよりもさ、さっき俺の意見よりもって言ったよな?」

確かに言った。

「お前の考えは? 聞かせてくれよ」

「笑わないでくれよ」

ギコは自分の考えを話した。『~~みたいなさ』の様なたとえ話は全く考えていなかった為に、意見だけをずらずらと話す形になった。
でも黙って聞いてくれている。それがとても嬉しかった。

「パラレルワールドってやつか」

「そうそう、それだ。タイムトラベルの移動先って言う考えもあるけどさ」

「お前、SF好きだもんな」

フサがころころ笑っていた。笑うなって言ったのに……。

「いや、いい考えだと思うよ。もしかしたらその通りかもしれない」

「どっかおかしな点とかあるか? バンバン否定してくれ」

そうだな……と、腕を組みながら考える。フサ劇場が始めるぞ、空席は有り余っている。

「いや、どんな事を言っても『その様な世界』で全て納得がいく。否定の仕様が無いよ」

お、何か久しぶりにほめられた気がする。

「じゃあ、『移動』する瞬間を見たか? めまいやら耳鳴りやらで見る余裕が無かったんだ」

「めまい? 耳鳴り?」

フサがオウム返しで答えた。何か変だ。

「いや、人は消えたよ。この公園で歩く人は誰もいない。お前と一緒のものを見ていると思う。
 だけど『移動』の時は何も感じなかった。ただ普通にここに座っていたら、周りの人が一斉に陽炎みたいに揺れ始めてさ」

「三拍子だったろ? タン・タン・タンって」

ギコが三回手を打つ。

「そうだ、それで三拍子目には消えていたんだ。
 いきなりグニャグニャ揺れ初めて、それが大きくなってさ。で、『ブンッ』って音がして消えた」

ディスプレイが急に消えた時の擬音語だ。ギコは鳥肌がたつのを感じた。

「『移動』の少し後、オーロラビジョンが消えるのを見た。きっと電気が止まったからだと思う」

「月は?」

え?
フサが短く何かを言ったが、ギコはよく聞き取れなかった。噴水の音にかき消されたのだ。

「いや、待て待て、見上げるにはまだ早い。ちょっと深呼吸をしてから見ろ」

「何を」

「まず深呼吸だ」

フサの顔から笑みが消えている。深呼吸なんて、何の意味があるのだろうか。
理由をもう一度聞こうと思ったが、真顔でにらんでくるので、仕方なくそれに従う。

「よし、陽を見てみろ。ゆっくりとだ。別に太陽は逃げないからな」

言われた通りにした。そして、目を丸くした。

ギコは立ち上がり、陽を見上げながら走って公園を出た。段差で転びそうに成ったが上を見続けた。
この噴水の広場を囲むように巨大な木が生えていたからだ。陽が葉に隠れてしまってよく見えない。もっとよく見えるところに移動しよう。

十歩ほど進んだ十字路の真ん中で立ち止まり、そこで目を凝らした。

――月に穴が空いている――

日食を起こしていた。皆既日食である。陽の縁だけを残して、後は月に隠れていた。
しかしそれでも明るさが変わらずに、こうして自分が今まで気づかなかったのは、その月に穴が空いているからだ。

やわらかいクッキーの生地から、円い型でくり貫いた時の様に、五つほど大きな穴が空いている。
いつもと変わらない青空に非現実的なものが張り付いている。異常事態の象徴だ。

「…けてくれぇ……」

無理矢理に太陽から目を離し、右手に続く十字路を見る。誰かの声が聞こえた気がする。
しかし、そこには誰もいなかった。また同じように真っ直ぐな道路が続いているだけ……。

「ギコ! こっちに来い!」

今度は後ろを振り返った。何だか様子が変だ。
公園と道路の区切り目にフサが立ち、体の底から搾り出した大声で叫んでいる。

「早くこっちに来るんだ! ボケッとするな!」

風が吹いて、公園の植木がさらさらと音を立てる。フサの声を掻き消すように、声を届かせない様にするように。
異常な剣幕に怪訝さを示し、目を丸くするギコにフサが駆け出す。

「フサ、助けを呼んでいるんだ。行かなきゃ」

フサに腕をつかまれる瞬間、まるで独り言のように小さな声で言った。
聞こえたようだが答えない。フサの手が腕に食い込む。そうしたまま、公園に全力で戻る。

「助けてくれぇ……」

「フサ……」

だめだよ、助けを呼んでいる人がいるのはあっちだ。逆方向だよ。

「うるさい! 黙れ!」

手を引かれながら敷地に入ると、生垣の影へ押し倒された。容赦ない。手の平を擦り剥く。

「いいか、絶対に喋るな。何がおきてもだ。いいな?」

言いながらフサが片膝だけ着き、ギコの隣に腰を下ろす。
陽気も風も快適そのものなのに、何か悪寒を感じる。

「寒い……」

陽を見た時から何か別の世界に迷い込んだような、夢心地の気分になった。

全てが非現実的で、目は白か黒かとでしか判別せずに、背景が色あせている。
吐き気がする。気持ちが悪い。目が回る。
口は言葉を忘れてしまい、動いてくれない。麻痺している。聞きたい事が山ほどあるのに。

「ど、どうして……隠れる、んだ?」

何とかそれだけ話すことに成功した。

「なんて言ったか聞こえたか?」

「……助けて、くれって」

「そうだ」

フサが最低限の声だけを出し、生垣に身を潜めながら前を見続ける。

「誰か助けてくれぇ!!」

思いの他、大きな声で怒鳴っている。驚きで肩が跳ねた。
今度はさっきよりずっと近くにいる。姿はまだ見えないが、走りながら叫んでいるのが声からわかる。

「この事態に『助けてくれ』はおかしいんだ」

フサ劇場だが、いつもの雰囲気などどこにも無い。かけらも無い。
真っ直ぐに続く道路から目を離さずに、後を続ける。

「誰か! 誰でもいい! 俺を助けてくれぇ!!」

「『誰かいないか』が普通だ。自分以外の誰かを見つけたいんだ。ここまでは分かるよな?」

分かる。易しい足し算だ。

「それなのに『助けてくれ』なんだ。
 他者から迫害を受けて負傷しているのか、もしくは受け続けて援護がほしいのか」

そこまで言うと一度息をつく。

「……おそらく後者だ」

二町分向こうの十字路から人影が飛び出してきた。

「だれか! 誰かァ!」

ギコはそこに倒れたまま動いてなかった。
生垣の花壇には少しだけ高さがあるため、コンクリートにくっ付いていては様子が分からない。

どうにかして見ようと、頭をゆっくりと上げるとフサの手が頭に乗る。

「お前は黄色なんだ。目立っちまう。頼むから隠れていてくれ」

目立っても困る必要など無いんじゃないか?
迫害を受けているならどうして隠れる必要がある? 頭が回らない。

それに、見たいものは仕方が無い。花壇の縁に鼻を乗せ、左目だけを外に出す。
見て確認できたのは、緑色の毛で覆われた男の人が、こちらに全力で走ってきている事だ。

荒い息遣いが聞こえた。

ギコがさっきまで立ち止まっていた十字路を、男は目もくれずに通り過ぎる。
そこではっきりと目視することが出来た。

彼は全身血だらけだった。腕にも肩にも足にも深い切り傷が出来ていて、そこから血が流れ続けている。
顔は必死で、頭から流れ落ちてくる血により、片目を開けることは叶わないらしい。

それを見た瞬間から麻痺していた感覚が唐突に戻ってきた。
赤い血。とにかく何かから逃げ出そうと、一心不乱に走り続ける形相。腹部が痛むのか片腕で腹を押さえている。

――大変だ!――

人が血を流しながら助けを求めている。選択肢は残っていない。やることは決まっている。

ギコはただ無心に、本能のまま生垣から出ようとする。が、フサに肩を掴まれ、そこにねじ伏せられた。
「こっちだ!」と声を上げようとするが、それよりも早く口を塞がれてしまう。

フサは動こうとする気配は無い。……違う、歯を食い縛って自分を抑えている。フサも飛び出したいのだ。
もう男までの距離はここから二十メートルあるかないかだ。三秒もすればここを通り過ぎてしまうだろう。

近づくにつれてフサは一層と体勢を低くする。見付からない様に、かつ、見続ける様に。
もう十歩分ほどの距離しかないところで、男の足は急に止まった。

シュタ! と音がして、真っ白な壁がすぐ目の前に現れ、進行方向を塞いだのだ。

落ちてきたのか? どこからとも無く?

よく見てみるとその白い壁には、長い手足と、頭には耳もある。
手は後ろで組み、足はその場で揃えて立っていた。こちらに背を向けている為、表情を確認することは出来ない。

自分たちと同じ外見だが、何かがおかしい。頭の大きさが変わらないのに、二メートルを優に越える身長だ。
そうだ、アンバランスな体系をしているのだ。八頭身はあるだろうか。

「ちくしょう!」

半泣きで言いながらファインティングポーズをとる。
生半可な出来ではない。瞬間から、男の隙が完全に無くなったのが一目で分かった。

軽やかなステップで懐に入り、ボディフックを打ち込む。

ドッ!
完璧にクリーンヒットだ。そこから始まるラッシュラッシュラッシュ!
目で追えないほどの速さで、息もつかずにひたすらに打ち込み続ける。速い!

「だめだ、足が止まっている」

隣でフサが小さな声で言った。それが終わるか終わらないかの時に、男の拳がぴたりと止まる。

散々に殴られ続けていた八頭身はびくともしていなかった。
後ろで組んでいた腕のうち、左手だけを前に出して止まっている。

「くッ!」

きっとあの左手の中には男の拳があって、それを捕まえて離さないのだ。

「グ、ア、アアアアァァァァ!!」

男は急に悲鳴を上げる。その悲鳴の裏に聞こえる、ボキボキと言う耳障りな音。

八頭身の左手が上げていた肘が支点になり、弧を描くように、頬の隣、腹の高さ、そして腰と動かされていく。

その手にはやはり男の右腕が掴まれていた。
離そうとしない。腿の高さまで下がってしまうと、腕は完全にひしがれて圧倒されていた。

八頭身は後ろに回していた右腕で何か操作をすると、緑色の肩がボキンと音を立てた。
その操作の直後に男は腹を蹴飛され、背中の方向に吹っ飛ばされて転ぶ。

コンクリートに赤い血液が付いた。
直ぐに立ち上がり、もう一度ファインティングポーズを取ろうとするが、取れない。
腕の付け根からだらりと垂れ下がっている。それを見ると倒れ、痛みに絶叫を上げる。
肩が外れていた。

ギコは見ていられなくなり、口を塞いでいる茶色の手を叩きながらフサに視線をそらす。
もう駄目だ、限界だよ。助けなきゃ殺されちゃう。フサはそこから動いてくれない。

パンッ!

音が聞こえ、八頭身に視線を戻すと、両手を胸の前で合わせていた。
肘を上げて力を込めている。……一息そうしたあと、ゆっくりと離す。

バシュュュゥゥ!

そう音がして手のひらから現れ、握られたのは、金色の光を放つ細長いロープだ。
掴んでいるのは真ん中ほどなのに両端は下についてしまっている。長さがある。

八頭身は両手でそれを掴んで二、三度伸ばす。ゴムのように伸縮するようだ。
今度は片手で掴むと上下に揺さぶり、コンクリートに叩きつける。バチンバチン! 鞭で硬い物を叩く時の音がした。

成人ネコは仰向けに倒れたままで、それを見ながら動かない。いや、動けないのか。
痛みに気を失いかけている。目が上の空で、どこも見ていない。

一瞬、八頭身が金色の鞭を見、男を見、その後余りの狂喜に、身震いをした様に見えた。

何に喜んだのか分からない。考えようとも思わない。
その喜びの全てを鞭に預け、コンクリートに叩き続ける。数を重ねるごとに一層と音が大きくなる。
感情が高ぶっている。きっと顔は満面の笑みに包まれているに違いない。

十回は叩いただろうか、もはや爆音にまで大きくなった後に、八頭身は唐突に鞭を唸らせた。
バトミントンのラケットを振った時のような、勢いよく風を切る音。残像を残しながら、空間を金色の鞭が走る。

ギコは息を呑んだ。
狂喜を剥き出しにした生き物のようだった。空間を走る鞭は息をしていて、この瞬間をずっと待ちわびていた様にも見えたから。
シュルシュルと瞬時に男の首に巻き付き……。

「見るな!」

フサに目を覆われた。

ブツンという音、何かがまた風を切り、シャワーのスイッチを入れた。
水が流れ出し、コンクリートを打つ。

光も無く、触覚も麻痺しており、音だけの世界。吸い込んだ息をひたすらに潜めながら、ゆっくりと吐き出す。
手探りで何か掴むものを探した。暗闇が怖かった。何か励ましてくれるものが欲しい。

口にあった息苦しさが無くなり、その代わりに手が何かを見つけた。
それを思い切りに握り締めた。絶対離さない。

――音を立てるな――

自分に何度も言い聞かせた。暗いところは嫌だが、ここに光を灯す手段が見付からない。
ただ待つしかない。動かずに、息を潜めて時間が流れるのを待つしかない。

一分か一時間か、気が付くと視界が晴れていた。さっきまでと変わらない、人が誰一人としていない町があった。
穴が空いた月に隠れる陽は、誰もいないこの町を照らし続けているだけだ。
たったそれだけ、今あった事に比べれば屁でもない。

「ギコ」

名前を呼ばれたが、その方向を見ようとは思わなかった。生垣から通りを見続ける。

「手、離せよ」

「いやだ」

即答した。風が流れて、葉が鳴る。

「よし、じゃあギコ」

今度はそちらを見た。フサがいた。

「この町から出よう」



    4 庇護 に続く

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