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ASA 17-031-2006 天安門弾圧事件被害者のいま

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ai-kunitati

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ASA 17/031/2006
2006年6月2日
News Service No:141

中国:1989年の天安門弾圧事件による身体障害者の復権いまだならず

このページの内容一覧

事案の概要

 1989年の民主化運動弾圧(=天安門事件)は17年を経てなお、被害者とその家族に重荷を与えている。天安門事件は、過ぎ去った過去のできごとではなく、今なお彼らの人生に苦難をもたらす進行中の悲劇なのである。

 被害者・生存者のうち最も注目を集めているのは、受刑者や殺された人たちである。1989年6月4日に起こった弾圧事件の17周年にあたり、アムネスティ・インターナショナルは、同事件で障害を負った人たちの窮状をとりあげた。

 彼らは、障害を負ったことにより、働く権利、生計をたてる権利、健康に生きる権利を含むあらゆる人権に影響を受けている。しかしながら、当局が天安門事件への公式姿勢を改めて、被害者の復権を図ろうとしないため、被害者は補償や賠償を受ける道を閉ざされている。

 1989年6月4日の事件に関して独立した公正な全面調査を実施し、加害者を処罰するとともに、被害者およびその家族に補償を行なうよう、アムネスティは再度中国当局に要請する。

斉志勇

 アムネスティが中国人活動家、斉志勇(せいしゆう、Qi Zhiyong)と面会した際、同氏は1989年6月4日の夜に脚の下部を撃たれた時のことを語った。三時間後に病院に搬送されたが、既に傷口から菌が侵入していたため、脚を切り落として命を救なわなければならなかった。

 当時、中国の「ゆりかごから墓場まで」の社会福祉政策に則り、斉志勇氏は勤め先の建設会社から基本的な健康保険を受けることができたが、この制度はその後の経済改革の影響で解体されてしまった。

 「職場は私に親切にしてくれて、十万元の一時補償金を支払うと申し出てくれました。ただし、それには、障害を負ったのは職場での事故のせいであると認める、という条件がついていました」と斉は語る。氏はその条件を断った。

 それ以来、斉志勇は、1989年の事件について沈黙を保つことを潔しとせず、事件で殺された人たちやその家族に注目してもらうため数度にわたりマスコミのインタビューに応じた。そういった人たちについてのほうが、自分自身についてよりも語りやすいと氏は言う。「中国は人口が多いでしょ。だから、私一人のちっぽけな命は大して重要ではありませんよ」と。[アムネスティのプレス・リリース ASA 17/017/2006を参照]。

 斉志勇は、復権を勝ち取るため困難な闘いを続けている。氏はそのキャンペーン活動を理由に警察から厳重な監視を受け、6月4日前後を中心に、数度にわたり拘禁されている。今(2006)年になって、他の中国人活動家を支援する公開ハンガー・ストライキに参加したために、7週間以上にわたり警察から恣意的な拘禁を受けた。

  斉は、障害により職場を去らなければならなくなった。新たに雇ってくれる職場はなかなか見つからず、小さな軽食堂とタバコ屋を開き、辛うじて生計をたてた。ところが、北京オリンピックに関連した大規模建設工事のため、何度も店を動かさなければならなかった。今年になって、ハンストに参加したあと、当局は氏の営業免許を取り消し、妻も職場から解雇された。それはあきらかに氏がキャンペーン活動を行なっていることに起因している。8歳の娘を抱えているうえ、今なお続く怪我の後遺症にも高い治療費がかかり、斉志勇夫妻は生計をたてるのに四苦八苦している。

 数年前、氏は北京市民生局に失業保険を受けられるよう申請したが、却下された。「担当者は私を嘲笑し、西側のマスコミの前で祖国を批判した裏切者だと責めたてました。もう西側から金を受け取ったんだろう、とも」。

 にもかかわらず、斉志勇は1989年の抗議運動に参加し、以来障害を負っていることを後悔していないという。それどころか、弾圧のあと"生まれ変わった"ように感じているそうである。「私は今年で50歳になりますが、17歳のように感じています。私の"本当の"誕生日は1989年6月4日ですから」と氏は笑う。

喩東岳

 他にも、弾圧のあと獄中で受けた拷問や虐待のために、今なお重い精神障害を負っている人たちがいる。喩東岳(ゆとうがく、Yu Dongyue)は、1989年6月に天安門広場の毛沢東の肖像画にペンキをなげつけた罪で16年服役したあと、2006年2月に釈放された。投獄中に、炎天下の戸外で数日間にわたり柱に縛り付けられる、断続的に殴られる、2年以上独居房に入れられるなどの拷問・虐待を受けたため、氏には重度の精神障害が今も残っている。

 釈放された時、喩東岳は完全な精神衰弱の徴候を示していた。多年にわたる友人や家族をそれと認識することができず、言葉を何度も繰り返すばかりであった。精神科医からは治療を受けるよう勧められたが、当局は釈放後も経済援助を行なわず、家族には治療費を払う余裕がない。

 1989年の事件の重荷は今なお、これらの人たちを含む弾圧の被害者たちとその家族にのしかかっている。しかるに、当局は、弾圧事件に関して独立した機関による調査を行ない加害者を処罰するとともに被害者に対し補償を行なうようにとの要求を、依然として拒否している。

周国叢一家

 しかしながら、かすかな望みを感じさせるできごとが最近あった。1989年6月7日に四川省成都市で警察により撲殺された当時十五歳の周国叢(しゅうこくそう、Zhou Guocong)少年の母親に対し、地方政府が七万元(約8700米ドル)を支払ったとの情報が先月もたらされた。周国叢は、民主化を求めるデモに参加したために拘束されていたのである。ただし、支払いの名目が「補償」ではなく「生活困窮に対する支援」 であったことは重要である。中国の活動家たちは、他の家族も同様の「補償」をひそかに受け取りながらそのことを口止めされているのかもしれない、としている。

黄キ

 この情報は、1989年の弾圧事件以来消息を絶った人たちの情報を広めるためのウエブサイト[http://www.64tianwang.com]を開設した黄キ(こうき、Huang Qi。「き」は「王」の右に「奇」)が明らかにしたものである。氏は報告の中で、この支払いがなされたことは「大きな前進」であるが、「[6月4日事件の]名誉回復を求めるのは、中国社会においては民主的にすぎて達成困難な目標である」と述べた。

 黄キ氏は、当局が政治上の機密とみなした資料を自分のウエブサイトで公開した科により懲役5年の判決を受けた、かつての良心の囚人である[ASA 17/001/2004 と ASA 17/045/2004を参照]。

施濤

 1989年以来、弾圧事件について報じたために投獄された活動家やジャーナリストが他にもいる。たとえば、ジャーナリストの施濤(しとう、Shi Tao) は、2005年4月に「国家機密漏洩」の罪により懲役10年の判決を受け、今も服役中である。施濤は、天安門事件十五周年の取り扱い方をさだめた共産党からジャーナリストへの指令を、海外のウエブサイトに投稿したのである[http://web.amnesty.org/pages/chn-310106-action-eng 参照]。

 アムネスティは、施濤が良心の囚人であると見なし、氏の即時無条件釈放を要求している。アムネスティはまた、1989年の弾圧事件の加害者を処罰し、被害者およびその家族に充分な公的補償を行なうことにより被害者の復権を果たすよう中国の人権活動家が要求しているのを、引き続き支持するものである。

(本文書の英語原文)

≪China: Justice denied for those disabled in 1989 Tiananmen crackdown≫
http://web.amnesty.org/library/Index/ENGASA170312006?open&of=ENG-2AS


関連アムネスティ和訳文書


喩東岳(ゆとうがく、Yu Dongyue)氏;
『天安門事件の活動家、釈放されるも、拷問の後遺症で精神病に』
http://www10.atwiki.jp/ai-kunitati/pages/11.html

施濤(施涛。しとう、Shi Tao)氏;
『人権に対するYahoo!の責任−中国政府は師濤氏を自由に!』
http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=168
『天安門の悲劇はまだ終わっていない』
http://www.net1.jway.ne.jp/abeusr1/newpage34.htm

黄キ(こうき、Huang Qi。「き」は「王」の右に「奇」。黄[王奇])氏;
『中国:インターネットでの活動が活発化するにつれ、管理統制が強化』
http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2004/0401280.htm


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